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Posted by LOGPORT運営事務局 at

2014年08月25日

つまり歌の全て


三線を弾いていた女の子も、チューニングにはあまり頓着していない様子でした。
でもふと、それで良いのだと思いました。音は物理的な空気の震えに過ぎませんが、
その震えの周期の些細な違いってのはどうでもいいことのように思いました。
三線と唄は同じ旋律をただユニゾンで奏でるだけのとてもプリミティブなものなんだけど、
そういう取り合わせではかえって魅力的にさえ思えてくるのかも。
僕は沖縄に行ったこともないくせにその子の話し振りやおかしなチューニングの魅力
やら何やらのせいでかえって想像がかき立てられることになりましたから、良いのです。

リコーダーで思い出しました。あまちゃんというNHKの人気ドラマがありましたが、
その音楽を担当した大友良英氏のバンドの方が、NHKでのレコーディングという
大舞台に際して立派なリコーダーを購入したのですが、そのサウンドを聴いた大友氏が
使用を却下したので日の目を見なかったというエピソードです。結局、そこらの
文房具屋で買えそうな小学校の音楽の授業で使うチープなもので臨んだということでした。
TVドラマというマジョリティをターゲットにした場合、リコーダーの原風景にそういった
高級感などは必要ないという判断でしょう。当然といえば当然なのですが、大友氏も
そういった(ベタな)部分はちゃんと抑えているのにニヤけちゃいました

先ほど、プリミティブという言葉を遣いましたが、日本語に訳すと原始的
となりましょう。日本で最古の歌は上代の万葉集ということになりますが、ほこら穴で
乞食を営んだ僧侶の民謡然り、米国ミシシッピの奴隷社会で生まれたデルタブルース然り、
様々な場所で生まれた様々なスタイルの音楽、つまり歌の全ては人間の日々の生活の
喜怒哀楽や信仰心に起因していると思います。そうあるべきものだとさえ思うのですけど、
今在る音楽に毒されていると、つうかそれにさえ気付かないでいると大切な何かを
見失ってしまっているのかも知れないなぁと思いました。
生活に根ざしたものはあまりハイカラに艶つけて着飾ってしまうとかえってうさん臭い
ものです。ホント普段着のままに気どらない音楽があるとしたら、それはきっとチューニング
や音色がどうのこうのといったことからも解放されたものかも知れないなぁ、と
僕は思うワケですが。

ちょっと無理やりまとめにかかって何が言いたいのかわからなくなりつつありますが、
これ以上伸ばすともう数ヶ月は沖縄そばの画像を使わなくてはならないので、
もうお開きにしましょう。おわり。

ごちそうさま。じゃあね。  


Posted by のぬね at 13:26Comments(0)ximeiri

2014年07月14日

釣りばかりして


川のそばに五軒ほどの集落があった。あちこちで清水が湧き出していた。家と家の間に細い水路があり、流れはそのまま川に注いでいた。幾筋もの水路の間に、家が点在しているようでもあった。
従兄弟の家があった。T先生の家と、同じクラスのK子の家があった。国語の時間、K子はまっ先に手を上げる。K子の答えは、字引の文章をそのまま読み上げているような、簡潔で聞きなれない言葉だったので、ぼくにはよく理解できなかった。

大きな岩の上で、従兄弟とふたり黙って釣りをする。従兄弟は釣り以外に興味がなかったので、ぼくらの会話はあまり進まなかった。
ぼんやり釣りをしながら、ぼくはひとり空想にふける。まわりに漂う甘い香りを、K子の気配のように感じながら、彼女のことをあれこれ考えていた。
彼女はあまり家から出てこなかった。釣りばかりしているぼくのことなど、軽蔑しているにちがいないと思った。思えば思うほど、しだいに彼女と口が利けなくなり、疎遠になった。

高校生になったとき、集落の近くにダムができた。
五軒ほどの家はすべて移転させられ、集落は川の底に沈んだ。
沈丁花という花のことを知ったのは、それからずっと後年のことだった。ぼくが川の匂いだと思い込んでいたものは、沈丁花の匂いだったのだ。
その花は、たぶんK子の家の庭に咲いていたのだろう。そして、あの春の匂いも、集落とともに水の底に沈んでしまったのにちがいなかった。  


Posted by のぬね at 18:22Comments(0)ximeiri

2014年06月24日

力こぶを競ったり


一日にいくども、ぼくもえんぴつを手にする。
だが何も書けない。
えんぴつは4Bか5Bの、芯が太くて軟らかいものを使っている。書くということに抵抗がなく、紙の上に素直にイメージを滑らせていける、その軟らかさを好んでいる。
だが今は、どんな軟らかいえんぴつも駄目だ。
かといって、便利な補助具のキーボードを叩いても、萎れた想念のドアをノックすることは難しい。


筆箱の中の、えんぴつの数を競い合ったことがあった。
ちびたえんぴつのような、ちんぽの長さを競った頃のことだ。
テストの×(バツ)の数を競ったり、指の切り傷を競ったり、力こぶを競ったり、背丈や体重を競ったり、ヒマワリの種をポケットいっぱいにして競ったり、いろんなものを競い合っていた。
サイコロのようにえんぴつを転がして、競うことはすべて遊びだった。
小さな勝利の先には、まだ見たことのない小さな夢があった。  


Posted by のぬね at 16:30Comments(0)ximeiri

2014年06月20日

わたしのほうが


あれれ、あれれ。
なんだい、わたしは、これこれこんなことをしていたせいで、そんな優雅な時間が取れなかった、
という、堂々たる大義名分みたいな申し開きができない。

あんまり頑張ってなかったのか・・・。
でも、これは趣味の分野。
よおく考えると、先述のKさんのように、趣味にまで手が届かず、
その場その場の課題を一生懸命乗り越えることで精一杯だった。
ひとつずつの課題は繋がっていないために、趣味を始める年齢が遅れた。
スタートが大きく違う人と、いくら頑張って競っても、無理。

自分は自分なりの、人生のステージの課題をこなしてきたのだから、まあいいか。
今だって、趣味を続ける障害はたくさんあるが、工夫して時間を確保しようと努力している。
趣味分野の人と、人生の課題ごとの結果、成果を比べて、わたしのほうが上だ、などとは、さすがに言えないし、
この人生の課題は、人それぞれ、状況が違うので、安易に比べられるものではない。
ただ、一生懸命やってきた、という自負だけはある。
趣味にまでは余裕がなかったが、課題はこなしてきたように思う。
趣味分野で遅れは取っても、代わりに得たものは、代替しようがないものであり、悔いはない。

ということで、すっぱいブドウ思考は、Kさんと同じではないか。
  


Posted by のぬね at 16:29Comments(0)ximeiri

2014年06月16日

お釈迦様は


それは
まだ明けきらない早朝のことでした
16年も前のことです
とてつもない大きな怪物が
私の家を壊しにきたと思いました
窓や戸や何かがガタガタと鳴り
床が跳び上がるようでした卜維廉中學
大きな音を立ててタンスや本棚が倒れ
食器がつぎつぎに落下して割れています
これはもう
この世のことではない
あるいは悪夢だ
まさしく短くて長い悪夢でした

しずかに夜が明けました
チチッと小鳥の声がきこえました
落下物の山の中から美容療程飼っていたインコが這い出してきたのです
小さな黄色い命が輝いてみえました
おお生き残った同士よと
抱きしめたい思いで掌にのせました

お釈迦様は言いました
「この世は美しい、人の命は甘美なものだ」と
どんなに大地が荒れ果てようとも
真に美しいのは人の心であり
命ではないでしょうか馬爾代夫自由行
どうか生きててください
生きてください!

  


Posted by のぬね at 16:13Comments(0)ximeiri