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Posted by LOGPORT運営事務局 at

2014年05月22日

戦いに臨むに


その神社の由縁に深い関わりがあるのが・・・このお方だ。2mもある像。珍しく、陶製の像だ。その陶製の像となって剣を地に突き立てるように立っていらっしゃるのは・・・日本古代史の英雄、日本武尊だ。すると・・・地に突き刺さっている剣は、草薙の剣か・・・。須佐之男命が出雲国で倒したヤマタノオロチの尾から出てきた剣で、須佐之男命から天照大神に奉納され、天孫降臨の際にニニギ尊(瓊瓊杵尊)に手渡された。ご存知のように・・・三種の神器の一つであり、熱田神宮のご神体である。三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる。一説には、壇ノ浦で平家が滅亡したさいに海中に沈んだとされるが・・・実際のところはわからない寰宇家庭

何故・・・この神社に日本武尊の像があるのか・・・?それこそが「矢作」という川の名の由来とも関わる。

景行天皇の御世・・・皇子である日本武尊が天皇の命により、東夷征伐に向かった。その際、この地にやってきた日本武尊は、地元の民から賊の退治を依頼された。その願いを聞き入れる事にした日本武尊は、戦うために矢を作る職人である矢作部たちに矢を作るよう命じた。その矢を作るための竹は、川の中州にあったが、川の流れは速く、矢作部たちは竹の生えている中州まで行けなかった。そこへ一匹の蝶が現れ人の姿となり竹を切り取ってきた。矢作部たちは、その竹を用いて1万本の矢を作り賊を討ち果たしたと伝えられる。この故事により、矢となった竹が生えていた川は「矢作川」と呼ばれるようになったという。また、戦いに臨むにあたり日本武尊が素戔嗚尊を祀ったこの地が矢作神社の起源と言われる母乳餵哺


東征に向かった日本武尊が戦ったのは、あるいは大和朝廷に従わない地元の勢力だったのかもしれない。大和朝廷と在野勢力との闘いがこの地で起こり、それが日本武尊の伝説として伝えられたのかもしれない。。。

どうも昨年あたりから日本武尊に縁のある地に足を向けることになることが度々あり・・・ひょっとして日本武尊と縁がある?と、内心思ったりしているものだから・・・この神社にも来てみたってわけだ郵輪假期

  


Posted by のぬね at 16:37Comments(0)ふのはひ

2014年05月22日

海東郡蜂須


矢作川・・・長野県の大川入山を源流とする一級河川。愛知県の中央部を南流して三河湾に注ぐ川。幹川流路延長117km,全流域面積1830km2。
この写真は、岡崎市に架かる矢作橋(国道1号線)からほんの少し上流から岡崎市内を眺望する眺めだ。その矢作橋、古くからの交通の要衝であり、幕府の政策や川の流れの関係で、架橋がみだりにできなかった江戸時代には、日本最長の大橋だった。だだし、当時の橋は、現在より少し下流に架かっていたらしい。
その矢作橋、歴史的にも重要な場所だ nuskin 香港
秀吉がまだ幼名の日吉丸と名乗っていた頃、奉公先の陶器屋から逃げ出しし、矢作橋の上で寝ていたところ、付近を荒らしていた野武士の一団が通りかかり、その頭が日吉丸の頭を蹴ったところ日吉丸はこれを咎め、侘びていけと言って頭を睨みつけた。頭は、日吉の度胸に買って手下に加えることにした。その頭こそ、海東郡蜂須賀村に住んでいた小六正勝であった。ここから秀吉の武士への道が開け・・・後に、蜂須賀小六は終生、秀吉に仕えていくことになる。実際には、橋が架けられたのが秀吉の死後ということで、橋の上での出会いはなかったかもしれないが、矢作川付近での出会いはあったやもしれない nuskin 香港
また、矢作橋を渡って岡崎に入ると、すぐにかつては家康の居城であった岡崎城があった。このように、秀吉、家康という歴史上の人物にも関わりの深い川であり、橋なのだ。

その矢作橋からほど近い上流の矢作川堤防のすぐ外側に、矢作神社がある。この神社こそ、矢作川の「矢作」という名で呼ばれるようになった故事が伝えられている nuskin 香港

決して大きな神社ではないが、拝殿周囲は大きな樹木で覆われており、古い神社であることが感じられる。現在から約1700年前、315年頃の景行天皇の時代にその由縁は遡る nuskin 香港。。。





  


Posted by のぬね at 16:36Comments(0)ふのはひ